100th ANNIVERSARY100年のあゆみ
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100年のあゆみ
当社では創業以後、暫くは苦難の経営が続いていました。
荻布宗太郎四代目社長は、その頃、当地元では思いも及ばぬ《冷蔵庫》の新設という断を下されました。
遠洋漁業・海運業等々手広く事業展開をなされていたその知力・胆力を発揮なさったもので、現業の確固たる礎を築いて下され、その後も長きに及んで、数知れぬ教訓をお遺しになっています。
そのお導きを永く社歴に留めるため、北陸新幹線開通にあわせ今般、全国有数の機能を備えもつ最新鋭《冷蔵庫》の建造を記念して、その勲に感謝の意を表し、将来を誓うべく偉大なるこの先人の胸像の製作を発意した次第であります。
平成十九年十一月吉日 造之
高岡冷蔵株式会社
役職従事者 一同
創設者 荻布 宗太郎の歴史
高岡の魚河岸は300年来、加賀藩の庇護を受けた越中全域の中心市場でした。
高岡冷蔵工業株式会社創設者である荻布宗太郎の父、荻布宗四郎はそれほど大きい規模ではありませんが、北海道の魚商人のひとりでした。
宗四郎は北海道・樺太の海産物を買い付け、北陸や関西方面に売りに行き、北洋の海産物を船で運んで北陸線で関西に運び企業を成長させたのです。
荻布宗四郎の長男として富山県高岡市に生まれた後継者である荻布宗太郎は、富山弁で通常の頑固さをはるかに超えた人物の意である「かたいちがいもの」と形容される代表的人物だとされています。
後継者・宗太郎が遠洋漁業へ進出したのは大正5年頃で、昭和6年までに西カムチャッカ、沿海州地区に9漁場をもち、鮭鱒定置網漁業を経営していました。
また、宗太郎は「荻布海商」を設立し、商圏を広げ、さらに前後して母船式カニ工船、母船式鮭鱒沖取漁業、北千島鮭鱒定置網漁業にも参加しました。「露領漁業」が激動期を迎えるのは、第一次世界大戦からです。
ロシア革命で不安定な経営を余儀なくされ、ロシア国営漁業も進出し、戦後の不景気とあわせて日本の北洋漁業は壊滅的打撃に見舞われました。
くだって、昭和7年全国中小漁業41社が合併し、「北洋合同漁業株式会社」を組織しました。この会社はその後、大企業である「日魯漁業株式会社」と合併し、「新日魯漁業株式会社」として発足しました。ここに日本の北洋漁業は一本化された状態でした。
しかし、荻布宗太郎は経営の難しい「オホーツク海最奥部シェレヨ湾ギジカ地区」で個人経営を認められていたので事実上16漁場も経営できており、荻布海商は10隻の船舶を保有していたため、海運と漁業経営を連携して一段と興隆を迎えたのでした。
- 参考文献:
- 富山県北洋漁業の歩み 富山県北洋漁業史編纂委員会高岡市史 下巻 高岡市史編纂委員会
年表 昭和史 岩波ブックレット シリーズ昭和史 NO.15